無慈悲な信仰者。

思い出とか感情整理用とか雑記。

退路を断つ為に。

2014年頃から、14歳の時に発症した躁鬱が重篤化した。発症したのは、両親が信用出来ないという溝に片足をはめ込んでしまった自分という存在ごと、その溝から抜け出せなくなってしまったからだと思う。

私は幼稚園年中頃まで父親が居ない事が当然の世界で生きていた。祖父母と保育園近くのホテルで延長保育ギリギリまで働く母。だから私の記憶の底にいる母との記憶は夜ばかりだ。満員電車の中、寝る前に布団の上でじゃれ合い眠り、起きたら母は仕事で家にはいない。保育園に預けられるまで私の世界には祖父母だけで、母という存在がとても遠く理解が及ばないものだった。夜、寝る前に押入れの中から見るタバコを吸う母の姿が多分、自分最古の母の姿だと思う。後は祖母との記憶よりも、近所の少し年上の女の子と遊んでいる事か、4歳の頃に観て今でもずっと愛しているアニメ、ふしぎの海のナディアと、日曜日の世界名作劇場ピーターパンの冒険の記憶しかない。

父親という存在が現れたのが年中組の途中に降って現れた。何度か会ったおじさんを、今日からお父さんと呼べと言われたのを今でも覚えている。

弟が生まれたのがいつだったのか分からない。祖父母から離れ、母は恐らく弟を妊娠した事、結婚した事から仕事を辞めていたと思う。母がいる生活だったけれど、引っ越して育ての親だった祖父母を失う形になった私はひどく不安定だったように思う。まるっと一時期の記憶を紛失している事に気がついたのだ。これを書いている最中に。

 

一度、小学校低学年あたりだろうか。言い合いの末、父親に椅子を振り下ろされそうになった事がある。私は大きな男の人がそれ以来、怖い。

小学生中学年の頃、夏のプール学習に行きたいと言って母を怒らせた事がある。その時母は私に馬乗りになってタオルを噛ませ、首を絞めた。ちなみに母はこの事を忘れている。

こんな生活の中で両親を手放しで信じる事が難しくなっていき、私は高学年辺りから良い子である事から逸れていった。中学年の自分は物凄く可愛くない子供だっただろう。だから些細な言い合いで、母に「あんたなんか死ねばいいのに」死ねと言われた。

私は母が欲しかった良い子供になれなかった、子育ての失敗作なんだろうな。どんなに違うと言われても、負の記憶を上書き保存する事はとても難しい事を知っている。記憶は些細なきっかけで簡単にフラッシュバックしていく事を身をもって知っているからだ。

 

高校生になって女遊びの激しい同性に恋をした。自分の根底にある「殺され損なった」という経験が、今の自分の背骨となっている「愛した人に殺して欲しい」に繋がっているのだと思う。だからもう、弄ばれてぼろぼろになりたかったんだと思う。でもその人は私の願望を見透かしていたから叶わなかった。代わりに死ぬほど優しく扱われた。この時に芽生えた願望は、だれか血の繋がりのない存在からの食い殺されるほどの愛情だと思う。

26歳でひどい失恋をした。本当に大切な相手を大切に思えない事を思い知らされた。私が異性愛の人間だったら、友人としてずっと近くにいれたのかもしれない。自暴自棄になって異性と二度恋愛をしたが、結婚妊娠を望まれたので破綻させた。私は自分の遺伝子を残すつもりも、自分のように破綻ばかりの人生の子供を生むのは御免だ。金銭に無責任になれても、子供にまで無責任になれないから親の愛情が信じられない自分は親になっては絶対にいけない。

虐待死する子供のニュースを見て軽蔑する母を私は軽蔑していた。お前だって同罪なんだよ。死に損ないの私は生涯この感情と思想の中で生きていく。こんな泥まみれの人間が望める事はもう三次元にはなくて、17歳の初春、感情の痛覚がなくなった私は虚無感と共に生ける屍として稼働していた。そんな屍が命を取り戻しかけたのが、初代ミュージカルテニスの王子様の存在だった。

テニプリはそこまで。だった私が熱狂したのだから、当事者たちがどれほどの情熱を抱いたのか想像に難くない。不二周助役のkimeruさんを好きになりFCに入りライブに行ったり音楽雑誌を買っていた私は、前述した好きな同性が好きだと話していたDIR EN GREYと出会った。

 

18歳の夏。7月24日。

唐突に明日死のうと思った。首の吊り方を調べようと思った瞬間だった。何かを急き立てるようなギターとドラムの音が耳に響き、

せせら笑う

という力強いのに虚無に包まれた、聞いた事のない歌声が、死にたかった私を殺した。

朔-saku-、Dir en grey

私はこの日一度死んで、この二つの存在に新しい人生を与えて貰った。京くんとこの日出会えた事は運命だと思っている。彼らの存在が私の父親になった。父の背中。それは、千手観音を背負ったあの人の背中を浮かべる。高校を卒業して普通の人間が生涯で得る幸福や悔しさを圧縮したような12年を駆け抜けた。普通の虜が感じて得る幸福と名誉以上のものも、形に残るものがいくつかある。

そういう12年から転がり落ちて、2.5次元作品の円盤を追う事しか出来ない時期も長く続いて今もその最中にいる。でも、もうこの箱庭から出ようと思って、これを書いている。

退路を塞ぐために書いている。

 

もう一度。地獄の釜の底で笑って踊ろう。

京くんが歌い続ける限り、どんな生き地獄も天国になる事を知っているのは私じゃないか。あの人に救って貰えた私が死んだら、あの人をまた何も救えない人にしてしまうじゃないか。会いたい。早く、早く。

 

治療が遅れたのは、母方の祖父と母の姉が躁鬱の気があったらしく、それに振り回されて人生をめちゃくちゃにされていた母はまだ病名を診断される前の私に言った。ブログ凍結まったなしみたいな罵詈雑言を。だから私は通院というものやカウンセリングといったものも、重篤化するまで受ける事なく生きていた。

12年の中で何度も破綻しかけたけれど、無理に無理を重ねて走った。何度も千切れた手足と破れている感情を自分で縫った。裁縫はとてもとても得意だ。眠れなくて苦しくても朝は来る。破れて塗って糸が腐って開いた穴から泥が溢れて溺れた。苦しくても朝は来る。涙が止まらない夜にも朝は来る。だから私は毎日皮肉におはようと繰り返し唱えた。

本当に何度走る事を諦めたか分からない。必ず辿り着く十三階段を登り続けている。止まった場所が終わりの時だ。だからもう止まろう。その度に、彼らは私にまだ走ろうと笑ってくれた。損するよって、未来の俺たちはもっと凄くなるからって。ここがてっぺんに違いないと思う風景を何度も共にしたけれど、何度塗り替えられたか分からない。大好きな友達だった女の子と見た武道館のスタンド席から見た風景は忘れられない。あの日、朔と約10年ぶりに聴いたumbrellaが今でも煌めいている。

きっとそれははたから見たら地獄のような生き方だろう。でも私は幸せだった。転げ落ちるまでは幸せだった。

 

人生は生き地獄だと思ってるし、一度死んで今は二度目の人生で、やはり生き地獄だし、自分の感情と人の好意を殺しながら地獄を生きてる自分の行く末はやはり地獄に違いないけれど、終わる時はただ一人今も愛してる泥の中の私に気付いて二度目の人生をくれた神様みたいな人間に殺されたい。

彼がいれば生き地獄も眩しく熱い天国だったから、恋が盲目・愛は盲信というのが私の宗教だという結論に至った。

だから神様がいなくなったら、その時が私の終わりなんだろう。代替えのない存在。それが生きる事はしんどいと言い、何一つ救えないと嘆く神様がいる世界の中で私が作った倫理。

私はおかしいのだろう。人並みの真っ当な幸せが理解できない。

そんなものよりも潰れるような轟音の中、汗と涙と上がる体温とこもる熱で、緩やかに病んでいきたい。どんな行為よりも彼と思考や視線が交差する瞬間が心地よく爽快だから。三度、確証を得るに至れるアイコンタクトをした事がある。最高に幸せだった。

 

だからあの地獄のような戦場に戻ろう。神様が待ってるから。

退路を断とう。もう働かない事はやめだ。寛解も諦めた。自分の宗教と倫理に全力で生きて死ぬ。他者の目に逃げているだの異常だの、そういう風にうつっても構わない。私は私。誰でもない私。

働いてやりたい事を始めたい。クレー射撃を始めようと思っている。お金がかかる。もう以前のように全国駆け廻れなくなるけど、今3度目の人生に足を踏み出す事に背中を押す推しが立ち上がる力をくれたから。私を支え生かすもの全てへの恩を返す人生にしよう。失うことには慣れている。傷が膿む事にも慣れている。治ったふりも修理の仕方も知っている。私は裁縫がとても得意だ。

 

Merciless Cult

 

今思えば朔と鼓動は家庭内の不安と少年犯罪が題材のPVだったな。皮肉だ。きっともうこれは運命なのだろう。私は絶対にあの熱狂の中に戻ってやる。愛してるからあの人を救えないひとではない事を証明するために。それを免罪符に生きていこう。

 

さようなら、病気で働けないわたし。